2010年5月5日水曜日

小林 秀雄、岡 潔 「人間の建設」

まずは買いましょう、そして、読みましょう。

と、いつになく力んで、全力でお薦めしてしまっていますが(笑)。

この対談がまさか文庫で出版されるとは、日本の出版界もまだまだ捨てたものではないかもしれない、と久しぶりに思ったほどです。2004 年に、この対談が軽装版の全集である「小林秀雄全作品」の 25 巻目に収録されたときに、1700 円でお手ごろだし、きっと、しばらく手に入らないからぜひ、と書いたのですが、今度は文庫本、わずか 362 円です。

小林秀雄は紹介する必要はないかと思います。岡潔に関しても、数学者ならば解説の必要はないのですが、まだ、このブログの読者がどういう形で固定するかわかりませんので(笑)、ざっとお話しておきます。数の範囲を複素数まで広げて微積分を行う、複素解析とよばれる数学の分野では、1変数の場合は非常に調和のとれた結果が成り立ち、美しい古典的な理論が存在したのですが、20 世紀の前半の時点では、多変数の複素解析を行おうとすると、1変数のようにうまくいかず、これを乗り越えるのは絶望的なまでに困難なことだとされていました。その問題を解決するための3つの定理を独力で完全に解決したのが岡潔でした。その道程は大変に壮絶なもので、この問題に没頭するあまり、彼は、最初に勤めていた大学を辞めざるを得なくなり、その後、北海道で研究員をしたり、最後は、自分の実家の和歌山の小屋に妻子とともに住みながら、たったひとりで何年もの思索を行うことになったのです。彼は、自分の発想の根源を「日本人としての情緒」と捉えていました。そして、戦後の日本の、物欲を肯定する世情のなかで、それらが損なわれることと憂え、後年、奈良女子大で教えるようになって以降、「春宵十話」(こちらも最近、文庫が出ました。こういう世の中なので、最近、また、岡潔が読まれてきているのかもしれませんね)をはじめとする随筆を多く著し、それを読んだ小林秀雄との対談の運びになったわけです。

もう、何も言わないでよんでいただければよいのですが、それで終わりではあんまりなので(笑)、まずは、いくつかの部分を抜書きしてみます。

「小林 : (前略) いまは学問が好きになりそうな教育をしていませんね。だから、学問が好きという意味をわかっていないのじゃないかな。
岡 : 学問を好むという意味が、今の小中高校の先生方にわからないのですね。好きになるように教えなくてはいけないといっても、どういうことかわからないのですね。なぜわかりきったことがわからないか。なぜおおきな心配ほど心配しないのか。現状はわかりきったことほどわからない。どこに欠陥があるからそうなっているかということを究めて、そこから直さぬといかんでしょう。
小林 : 学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うけれども。
岡 : 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない。ただ試験目当てに勉強するという仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 : 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。選手には、勝つということが面白いだろうが、それよりもまず、野球全体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手は確かにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。
岡 : そうですか。
小林 : むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。 (後略) 」

なんて、これ、1965 年の対談です。思わず、今までの「ゆとり教育」って・・・、と言ってしまいそうになりますが(笑)。 

それから、

「小林 : それからまたこういうこともありますね。たとえばアインシュタインの創案した一つのイメージがあるでしょう。それは何も主張しているわけではないのです。正確に書けばこういう図面になると言って彼は出しただけです。このなかに間違いなんかないということで、それを出しましょう。それは全く人生観でも思想でもない。彼は図を書いているのだから。ところが僕らはそれを人生観だと思うのです。
岡 : そうですね。そういうことを書いたものが多いですね。
小林 : どうも面倒な問題ですね。たとえばエントロピーという一つの量があるでしょう。ところがこれを、熱現象を理解するための或る物理適量としてはっきり受け取ることが、僕らには非常にむつかしい。言葉として受け取ってしまうのです。そうするとこの宇宙はだんだん絶滅していくとか、デグレートしていくとか、そういうふうに意味をとるでしょう。ところが、熱力学というものはそういうことに全く関係がない。それを宇宙全体、人類の全歴史まで含めたものの中に拡張するなどという意図はないわかです。物理学者の言う非人間的な量に人間的な意味をつけたがる。これはまったく自然なことで、仕方のないことでもあるのですね。
岡 : そういうことは、人の一つの本能といいますか、強力なものなんですね。それで自然科学、自然科学と、日本ではこのごろ特にやかましく言うのですね。なるほどね。
小林 : だから私はそこに今の日本の文化の大きな問題があるのではないかと思います。ということは、科学というものの性質をはっきりのみ込んでいないということで、それを認識させる教育をしなければいかんのです。科学は何を言い、何を言わないかという。
岡 : 釈尊は諸法無我と言いました。科学は無我である、我をもっているものではないということを教え込まないといかんわけです。自然科学の弊害は多いですね。
小林 : このままでは弊害ばかりですね。
岡 : 人の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主観のない科学に勝手な主張を入れる。ほんとうにそうです。人には野蛮な一面が混じっているのです。」

また、

「小林 : (前略)  やかましい国語問題というものの根本にも同じことがあります。福田恒存君なんかが苦労してもなかなかうまくいかない。私なんか運動というようなものは甲斐性がなくて一向だめでお役に立たないが、問題の中心部は大変よく感ずる。国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田君は愛情から出発しているのです。ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこに食いちがいがある。愛情をもたずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。そういうものではないでしょうか。
岡 : 理性というのは、対立的、機械的に働かすことしかできませんし、知っているものから順々にしらぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。」

などなど。

さて、さすがに高名な対談なので、この本については、いろいろな方が感想を述べています。もちろん、その都度、ご自分の印象に残った箇所を抜き出すわけですが、抜き出される箇所は随分違っています。この対談が、いかにすみずみまで充実しているかということの表れだと思います。

というわけで、この本が出版されたのは大満足で、新潮社、えらいなあ、と思ってしまうのですが、ひとつだけ、小声で文句をいっておきたいことがあります。文庫本の帯に「史上最強の雑談」と書いてあり、カバーの裏表紙 にも、「有り体にいえば雑談である。しかし、並みの雑談ではない。 (中略) 日本史上最も知的な雑談といえるだろう」と、やけに、「雑談」を強調しているのですね。これは、特に主題がない、ということかもしれないし、また、ハイブリッドだけど、気軽に話してるんだから怖がらなくて読んでいいんだよ、と、呼びかけて多くの読者を獲得しようとしているのかもしれません。ただ、少なくとも、小林秀雄にとっては、かなり明確な目的、というか、ひょっとしたら、「取材」といってよいほどの、強烈なモチベーションがあったのではないかと思うのです。

この対談の当時、小林秀雄は「本居宣長」を連載しており、対談の中でも、何度か、その話題が出てきています。この複雑で微妙な大作をうまく語ることができないのですが、そこでは、人が学び、その世界に生きる、その生き方が思想に結実してゆくということがどういうことなのか、ということが主要な関心になっているように思います。

小林秀雄にとって、宣長とは、古典を学び、古典を生きて、その生き方の在りようが思想になった人で、だからこそ、あれほど克明に、文献に現れる、宣長の常住坐臥、思考の軌跡を追い続け、そこから立ちあらわれる何かを見つめ続けたのでしょう。 

そして、「人間の建設」の中で、

「小林 : それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は欠きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章は面白くないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。」

と言う小林秀雄は、宣長に通じる、そのような意味での思想を、岡潔に見ていたと思うのです。