相変わらず、休日まで大学にいって山積する雑用と戦って、そして多くは敗れています(笑)。
今日は、先週に締め切った行列の講義のレポートを採点していました。
気になるのは、ここ2年ほど、 計算ミスが急増していることです。しかも、以前は慣れると自然に減ってきたミスが、減らないままで半年が過ぎているように思えます。
大人数相手の講義として、もうひとつ、後期に小学校の先生になる人向けの数学を担当しているのですが、こちらも、昨年度、4桁の足し算くらいになると、間違う割合が非常に多くなり、驚いた記憶があります。
たかが、ケアレスミスだろ、本質の理解と全然関係ないじゃないか、と、言う方もいるかもしれません。現に、私もよく計算ミスをします(あまり威張れること ではないですが(笑))。ただ、それに気づいて、修正する感覚は持ってほしいのですね。例えば、これから、連立一次方程式の問題を3題出題して、ひとつは一意に解ける、もうひとつは不定の、もうひとつは不能の例にしよう、と意図していたとしても、計算ミスで全部答えが一意に決まってしまったら(笑)、期待されるような理解に繋がらず、本質的なことをそれで逃してしまうのです。
何でも「ゆとり教育」のせいにするな、と、いわれるかもしれませんが、それ以外に理由が考えられません。この近辺は、受験産業の層が都市部ほど厚くないため、公教育の影響が顕著に出てしまう印象があります。やはり、きちんと身につけるものは身につけないと困るんじゃないかなあ、と、不安になってしまうことがあります。
数学教育について語る人の中に、訓練、という言葉を蛇蝎のように(笑)嫌う方がいます。例えば「世界一受けたい授業」みたいなものをやっているのが、よい授業、ということなのでしょうか。言うまでもなく、なるべく苦痛や無理のないよう、合理的な方法を工夫する必要は常にありますが、練習というのは大事だと思うのです。それが通じず不思議に感じるときがあります。スポーツで基礎体力作りをしたり、器楽で音階練習をしたり、ということの重要性は、大抵の方々は納得しているだろうと思うのですが。
何度か書いたり話したりように、私の数学の原風景の中で、遠山啓という方の書いたものは、大切な場所を占めているのですが、それでも、「数学は楽しくさえあればそれでいい」、「生徒におもねることはすばらしいことだ」、と言い切られてしまうと、ちょっと、違和感を感じるときがあります。
もちろん、彼は、それ以前の時代の、スポーツで例えると、「発汗に使われるエネルギーで疲労するから運動中に水を飲んではいけない」といったり、膝を壊す危険性があるうさぎとび(あれ?若い人はうさぎとびって知りませんか?(笑))を課したりするのと同じような方法で、数学を叩き込もうとするような「鍛錬主義者」と闘うために旗幟を鮮明にしなければならなかった、という事情も十分承知しているつもりですが。
さきほど、器楽の練習、と書いたときに思い出したのですが、私が高校に入ってクラシックギター部に入った当初、スケールをやっていたときに、先輩が、毎日スケールばかりやっていてつまらないでしょ? と聞いたら、私が、いいえ、自分はスケール好きですから、と言ったのだそうです。私はそのことを忘れていたのですが、後で、その先輩から、あのときは、君ってずいぶん変わっているなあ、と思ったよ、といわれました。
そういったのは忘れていたのですが、スケール練習が好きだったのは覚えていて、それには少しは理由があったのです。私は 中学生のときは我流でフォークギターを弾いていて、手の形がきちんとしていなかったのです。それで、ちゃんとした弾き方にしたら、格段に音がきれいになるのがわかって、それが嬉しかったのですね。だから、理想をいえば、どうしてそういうトレーニングをするか、がわかっていたら、単調な練習にもだいぶ意欲的に取り組めるとは思うのですが。
でも、 書いた先から、それもむずかしいのかな、と思ったりもします。普通、初めてギターを弾く人は、そんなこともわからないうちに、こう弾きなさい、と言われるわけで、何でこんなことをしなければならないんだろう、と、思っても無理はないでしょう。また、ほら、こんなに音がきれいになったでしょ?、と言われても、それまで音楽に馴染みがない方ならば、急に音の良し悪しなんてわからないかもしれません。私の場合は特殊ケースなのかな、という気もします。
結局、その辺は、教わる方が、この人の言うことなら、と思ってもらえる信頼関係でしか解決できないのかなあ、と、いきなり、方法論的でないことも考えてしまいますが(笑)。
何でこんなことが気になっているか、というと、お知り合いの方のホームページやツィッターで、RPG じたての教科書や、教育用のデジタルコンテンツに関する話題が(おそらく懸念とともに)紹介されていたからなのでした。私も、それで勉強する苦痛を取り除けばよい、という考え方に、すこし不安を感じています。ゲームをしているといつの間にか身につく数学は数学なのか、という問題に対して、否定的になってしまう部分があります。
例えば、サッカーを体験するのに、サッカーゲームをすれば、楽しみながらルールも戦術もわかるし、有効なんじゃないの、というのと似ているのではないか、と思ったりします。一部分はカバーできるかもしれません。でも、それをメインにして、サッカーの本質を身につけるのに事足れり、としてよいものなのか、というと、違うんじゃないかなあ、という気もします。ゲームが楽しくて夢中になった方には、どういう風にコントローラーのボタンを押せば必殺技が繰り出せるか(笑)、というような、ゲーム固有の問題のほうが重要になるでしょう。ゲームの楽しさで学ぶ方々の歓心を得ようとすることは、マシンを使って体力づくりをすることと、意味合いが違うのではないかなあ、と思えてしまうのです。
中学校の幼稚なサッカー部の、しかも、レギュラーぎりぎりだった私の 30 年近くも前の経験でこんなことをいうのも何なのですが(笑)、サッカーの「リアル」というのは、散々、戦術を尽したあと、相手チームの選手とヘディングを競り合う、何十分も走り続けてへとへとになったところで足を伸ばす、一瞬の隙に生まれたスペースへボールをトラップする、そのときの体の使い方、そういう数十センチの差であって、それは、実在の人間が地に足をつけて行う、そのことに触れないと得られないものではないか、プレイする人は、そのために練習をするのではないか、と思ったりするのです。
お察しの方もいるでしょうが、イングランド戦の闘莉王選手のゴールとオウンゴールを見てしまったので、そんな例えになってしまいました(笑)。