大学に行く途中で、辻邦生と北杜夫の往復書簡を収めた本を買おうと紀伊国屋弘前店に寄ったのですが、見当たりません。日本文学と随筆と評論とその他めぼしい本棚を廻って、ひょっとしてこれは入荷していないのではないかと思って検索システムを使ってみたら、やはりそうだということがわかり、こんな大事な本も実物を見て買うことができないのか、と、ちょっとショックを受けてしまいました。
このお二人は10 代から 20 代にかけて、もっとも愛読した作家です。今も読み返しては感銘を新たにすることも多く、あれから 20 数年、このお二方の「替わりになる」とか、ましてや、このお二方を 「乗り越える」という作風の人は出ていないと思っています。私は、そういう本が出来たというだけで買う気になっているので(笑)、アマゾンででも手に入れればよいのですが、弘前の若い人々が、彼らの交流を目の当たりにできる本を実際に書店で手にとる機会がないというのは、残念だなあ、という気がしきりにします。
そう思って、周りを見渡してみると、私が好きな作家の方々の本がほとんどありません。ミステリをほとんど読まないこともあり、最近話題の作家の方々の本は性に会わないことが多いのですね。「トップランナー」や「情熱大陸」といったテレビ番組などに出演されている作家さんを見て、ああ、そうか、これが世評が高い作家さんなんだなあ、と思って書店で立ち読みしてみたりするのですが、大抵が、あ、自分には合わない、と思って書棚に置いてしまいます。まあ、自分がトシをとって、アナクロオジサンになっているだけなのかもしれないのですが、それでも、ある時点で日本の小説の流れに決定的な断絶ができてしまい、それ以降の作品がある種の斬新さと引換えに今までの成熟を無視したことによる幼稚さを引きずっているのではないか、という気もしないではないのです。
ということで、安心できる文章を求めて、かろうじて目についた、小川国夫「弱い神」と、三浦哲郎「おふくろの夜回り」(三浦哲郎さんが八戸のご出身だからか、この本は平積みされていましたが(笑))を購入しました。
こうして、ついつい、当初の目的以外の本を買ってしまいます。
お盆休み前に片付けなければならないので、大学では、2回目の教採2次対策講座のアナウンスのために、掲示の準備をしたり、あちこちにメールを出したりしました。今日も、例年になく弘前なのに 30 ℃以上になっています。いつも、騒いでいるように、仮住まいの研究室は狭い上に南西向きで、陽が射していると絶望的に暑くなってしまう上に、私が馬鹿でかいパソコンとプリンタを使っていてそいつらが盛んに熱を放出している(笑)、という、さらに絶望に輪をかけた状態なので、長居ができません。汗だくになって、どこか冷房のある場所に逃げよう、と思っても思いつく限りでは生協の店舗しかありません。そうして、何気なく書籍を眺めていると、ドウアンヌという方の書いた、「数覚とは何か?」という本が目につきました。ここにもちょっと書いたように、最近、趣味で、数学を認識するとはどういうことか、に興味を持っているので、ぱらぱらと眺めると、今まで私が読んでいたピアジェの実験が誤りだ、ということが書いてあるみたいで、とても面白そうなので、また、購入してしまいました。
実は、そのような興味で本を読んでいると、どうしても、認識論のコトバが出てきて、今までに縁がないような本も読まないと意味がわからない、ということになってしまっています。さらに、教育学部などにいると、現在の教育事情の断片を目にしてしまうこともあり、そうすると、これはどういうことなんだろう?と、思って、また、それに関する本を買ってしまったりします。
まだ読んでいない本が、部屋のあちこちに積まれてきています。さすがに、これらを全て読み通せるのか、いよいよ不安になってきました(笑)。