最近、外国語の勉強って何のためにあるのかなあ、と、考えています。
よく、日本の教育機関は文章読解とか、文法だとかに力を入れて、会話が全然できないじゃないか、けしからん、というような論調を見かけます。一面、そういうところもあるのかもしれないのですが、それでも、その主張が十分な説得力を持つほど、大部分の人たちにとって、普段の生活のレベルで英会話が必要なものだ、というのは、どうも、ピンとこないのです。
出不精でビビりな上(笑)、こちらに赴任してから時間も研究費もないので(笑)、全然海外にいかなくなってしまったせいもあるのですが、私自身に関して言えば、ここ数年の間、英会話と思しきことをしたのは、帰省したときの東京駅の地下ホームで、外国の方から、成田エクスプレスの発車時間を聞かれたときだけ(笑)だったと思います。さすがに仕事柄、数学関係の文献に触れることはあり、英語の読みのほうは、数日に1回くらいは(笑)しているので、まだ、そちらのほうが使う、という状態なのですが、これは異常なのでしょうか。知らない間に、日本人の大半の方々が日常的に英会話をするようになっているのでしょうか。
少なくとも、私自身はそんな調子なので、まず会話を、と言われても、いや、それならまだしも文章を読むほうが「実用的」なんだけどなあ、と、考えてしまうのです。
かといって、それなら、話す、に加えて、読み書きができればよいのか、と言われると、そういうことでもないような気がします。外国語を学ぶ、というのは、単に、その言葉が、「コミュニケーション」の「ツール」として使えればよい、というだけのこととは、とうてい思えないのです。
まず一つ、外国語を習得する、という体験を通じて、言語は、特有の構造を持っていて、それを学ぶことで身につけることができる、という感覚を持つ、ということもあるのだと思います。もちろん、国語でも日本語の文法を学ぶのですが、日本語自体は、すでに無意識的に身についているものなので、規則、というのが後付けに感じられてしまうきらいがあると思います。白紙の状態から、単語と構造を基にして、文章を理解する、ということは、言語の構造を学ぶ、ということだけでなく、物事の思考のプロセスや、情報の構造(プログラミングなどでも)にも通じることで、そのような側面も大切ではないかと思うのです。
さらに、「日本語」とは異なった感覚に触れる、ということがあります。水村美苗さんが、第2次大戦中、ひとり超然としていた永井荷風の心のよりどころになったのは、「外国語の読書」だったのではないか、大戦中、周囲が「同じ言葉」を連呼している中、遠い国の、遠い言葉によって、荷風は自らを持していたのだ、というようなことを、辻邦生さんとの往復書簡の中で書いているのを読んで、なるほと、と感じたことがあります。
他の言語によって相対化してみないと、如何に自分が普段の言葉に凭れかかっているのか、というのを感じることはできないのではないでしょうか。私の場合、永井荷風のように大それたものではないうえ、英語もからっきしダメなので、外国語を通じてそういう感覚は持ったことはないのですが、 商売柄、数学、という、違う「言語」を使うということもありますし、道楽として、音楽を聴いたり、絵を見たりするので、考えていることが表現の方法によって違って伝わる、ということは、少しは想像がつきます。心の中にある、微妙で曖昧なものを言葉にする、そのプロセスに意識的にならないと、何が失われているのかを自覚することができません。そして、そこで失われているものは、本当は、現在の世界に縛られない自由な精神を得るために必要なものかもしれないのです。
外国語を学ぶ、というのは、単に、「道具」を得る、ということ以外にも、いろいろな要素があるように思います。にもかかわらず、教育機関の「一般教養」でさえ、TOEFL や TOEIC の受験のみにすればよい、という風潮はどうかと思うのです。それらが、留学や海外生活、ビジネスのための英語を審査するのに定評のある試験であることはわかるのですが、限定された意味での「コミュニケーションのツール」としてしか言葉を扱わず、言葉を通じて、知ること、考えることを愛する、そして、学ぶことを通じ、自らを持していく力を得る、という機会を持たないでよいという考えには、どうも納得がいかないのです。
高校での英語の副読本が、サマセット・モームの短編集 「コスモポリタンズ」 でした。それこそ、単語3つおきくらいに(笑)辞書を引き引きして読んだ短編「マックス・ケラーダ氏」の読後感は、今でも鮮明に残っています。こんな話をしても、時代遅れの世迷言にしか聞こえないのでしょうかね。英語の授業が学校を挙げたTOEFL の得点獲得競争になってしまって、将来の高校生がこのような体験をすることができない、というのは、何ともさみしく感じられるのです。