ここ数年、ニシザワセンセイの講義は難しい、ということになっているみたいで、何となく、様子が変わってしまったなあ、と、思っています。
今、勤めているところで 10 学年ほどを担当したことになるのですが、その最初の数年、私の講義は、易しい、とまでは言わなくても、勉強していれば単位は必ず取れる、というのが定説でした。私が赴任する前の一時期、代数の教員が空席で数学専攻の学生さん達は理工学部で講義を受けなければならなかったようで、最初の年度は過年度の学生さんが結構いたのですが、特に下駄を履かせることもなく、皆さん、1回できれいさっぱり単位をとりました。それ以来、しばらくの間、普通に講義に出席していた学生さんはほぼ全て単位を取り、「楽勝教師」の名をほしいままにしていて(笑)、出席していたのに試験で得点をとれずに単位を落とした人が初めて出たときは、学科の学生さんの間で、ちょっとした騒ぎになったほどでした(笑)。 それが、最近では単位を落とす方は珍しくなく、科目によっては、全体の3分の1近くの方がもう一度受講する、ということになってしまっています。
当初、「わかりやすい」といわれたのは、講義での説明に加えて、ホームページに講義ノートや練習問題の解説を載せたり、質問に長時間付き合ったりと、関連することをなるべく詳細に説明をすることにして、勉強する際の論理的なギャップを小さくしたからだと思っています。 弘前に来て気づいたのですが、書店で数学書も手に入りにくい、図書館の本も揃っていない、など、手に入れられる情報が限られているようですし、さらには、専門の講義は全て数学で4年はゼミだけ、というのが普通な理工系の学部と違い、教育学部では、教職関連の科目も多い上に、3、4年の膨大な時間を実習に費やすことになります。本心では、自分で考えたり、調べたりして身につけてほしいという気持ちもあったのですが、そういう状況を考えて、百歩譲って、まずは、口真似でも数学の言い回しで話し、見よう見まねでも定石である考え方を扱う、ということを繰り返したほうが、数学の説明の仕方や考え方が身につくのではと思い、言うなれば、断崖絶壁や、急勾配のルートをとらず、緩やかなスロープで登ることができるように目論んだわけです。勾配が緩やかになった分、結果として、長い距離を歩かなければならなくなるのですが、当時の学生さん達は、辛抱強く考えることは比較的出来ていたように思います。そのころのブログを読み返してみると、試験前やレポート提出期限直前(笑)は、質問に深夜 0:00 過ぎまで付き合った、とか、休日にメールで呼び出されて 6 時間くらい説明していた、などという記述が頻繁に出てきます。
私の方のスタンスは変わっていませんし、ここ数年、ほとんど同じ科目の講義をしているので、説明自体はむしろこなれてきていると思うのですが、詳しく説明しようとしても、長時間、論理を追いながら考えることに耐えられない、という感じで、ついていくのが苦しそうな方が増えてきたように思えます。「説明が難しい」センセイだといわれるようになった所以です。
そういう方にとっての「わかりやすい」というのは、例えば、何か一言、肝になることを聞くと全てのことがぱっとわかる、とか、何気なく映像か何かを眺めているだけで、たちどころに証明や計算ができるようになる、というようなイメージなのかなあ、と思います。ちょっと前に、大学の学生さんからのアンケートをまとめた冊子が配布されたのを読んでいたら、茂木さんや米村でんじろうさんみたいな講義を大学の教員もやるべきだ、みたいなコメントがあって思わず苦笑してしまったことがあります(あ、これは教育学部の方のコメントかどうかはわかりません。念のため)。某テレビ番組みたいなことをさしているのでしょうが、あれは、名勝や行楽地の絵葉書や映像を見ているようなものです。楽しいですし、若い方々が、ああいう場所に行きたいなあ、という気持ちになるかもしれないので、否定するつもりは勿論ないのですが、大学で勉強をすることとは全く性格が違うことです。専門の勉強をする、というのは、自分が辿りついた場所で、ここはどのようなところなのか、この道はどこに続いていくのか、どこへいったら危険なのか、などを、自らの足で歩き回って確かめることなのです。
ただ、これは、学生さんのやる気が足りない、ということで片付く問題ではなさそうです。彼ら、彼女らは、頑張って勉強したい、と意気込んでいるのですが、にもかかわらず、持久力が足りなくて思うようにならないようにも見受けられます。大学に入るまでの間、数学を考える時間が減っていることによるのではないかと思っています。それまでの課程に比べて、3割近く違うのですから、無理もないのですが。
とはいえ、受講する学生さん達の大半が学校の先生になることを前提とするならば、将来教えることの枠組みをきちんと理解する必要性はこれまでと変わらず、卒業時に身につけていることを期待される素養も変わらないはずです。さらに譲って、「わかったつもりになるだけ」みたいな講義をするつもりはないのですが、聞いている方々の考える体力がついていないとすると、聴講することと並行して自力で勉強することが前提である(そうなのですよ、本当は(笑))大学のシステムが働きにくくなり、その中で、これまでは高校までの間で揃っていたはずのことまで身につけるようにするにはどうしたらよいのか、難しいなあ、と、思ってしまいます。