辻佐保子さんは、私の好きな作家である辻邦生さんの奥様で、「辻邦生のために」が文庫になったのと前後して、昨年末にお亡くなりになってしまいました。自分の好きな作家の傍にいた方、というイメージがどうしても強かったこともあり、つい最近まで知らなかったのですが、西洋美術史の権威で、国立大学での女性教授の草分けともいう人だったのだそうです。というと、ずいぶん、いかめしい印象を持ってしまいそうですが、例えば、辻邦生さんと北杜夫さんとの往復書簡などで、辻邦生さんの手紙に一言付け加えたメッセージなどを見ると、活き活きとした、可愛らしい機知が印象的で、おそらく、辻邦生さんが終生持ち続けた快活で、晴朗な一面は、この方と一生を共にしたことにもよるのではないかと感じられもします。
夫妻の仲のよさには定評があったようです。以前、この夫妻をよく知る埴谷雄高・北杜夫のお二人の対談を眺めていたら、こんなくだりがありました。
埴谷 : あなた、辻と辻邦生の奥さんは一体ですからね。我々と違って分離していないんだから。1999 年に辻邦生さんがお亡くなりになられてからは、本来の研究の他に、作家辻邦生の事跡を残すことにも関わることになりました。辻邦生という方は、大学に勤める傍ら、膨大な仕事を行うので、おそらく、文壇づきあいやマスメディアへの露出などは極端に少なかったであろうし、さらには、作品を発表しはじめるのが遅かったうえに、後期の傑作、「西行花伝」で谷崎賞をとるまで、文学賞とも縁が薄かったので、幅広く名前が知られている、という印象がなく、もしかしたら、すぐに忘れられてしまうんじゃないかなあ、と心配しなくもなかったのですが、没後 10 数年経ってみると、いわゆる、「人気作家」という感じの方よりも、根強く読みつがれているのかもしれない、と思わなくもありません。多くの佳作が絶版・品切になってしまっているという、残念な状況は避けられないのですが、それでも、全集が出版されたり(後述するように、私は残念ながら購入していないのですが)、ときどき、作品が文庫化されたりしてますし、代表作のいくつかは、辛うじて、コンスタントに手に入るようにはなっています。もちろん、支援する方、愛読する方がいることにもよるのでしょうが、それとともに、奥様の存在や、ご尽力によるところもあるのでしょう。そして、そのようなことは、おそらく、奥様自身が、喪失感を埋めるべく、一緒に歩んできた時間を確かめることに繋がっていたのだろうとも思います。
北 : 辻邦生夫妻っていうのは、あれ変態性だと思いませんか。あんなに愛し愛されている夫妻なんて。
埴谷 : うーん、そうですね。
北 : だって、結婚してあんな長年、仲良しに暮らしすぎますよ。
埴谷 : 異種同株っていう植物がある。辻邦生夫妻がそれなんですよ。これは困ったことで、植物が二つあると思ったら同じなんです。
北 : 辻は結婚してどれくらいになるかな。いまだに愛し、愛されてる。
埴谷 : 僕は一緒に欧州旅行したらね、辻は毎日奥さんに手紙書いてた。長い手紙を。
北 : そうなんですよ。辻さんはパリに行っても、毎日々々奥様に手紙出してる。
2冊の本のうち、「『たえず書く人』・・・」は、全集の各巻に寄せて、執筆していたときの辻邦生さんの様子とともに、収録作品について書いた文章を1冊にまとめたもので、「辻邦生のために」は、共に過ごした場所や、二人が関わった人々、馴染みの物について書いた随想、回想や、発表された遺稿集のあとがきをまとめたものです。
もちろん、確かな愛情に裏打ちされている、ということはあるのでしょうが、それだけにとどまらないしっかりしたものを感じます。そのようなことを考えていたら、「辻邦生のために」のほうの解説で、堀江敏幸さんが、
ここには愛する人と過ごした時間へのオマージュに終始することなく、辻邦生の文学の生成過程を冷静に追う批評家のまなざしがしっかりと生きていて、伴侶を失った哀しみを読者に共有させながらも、同時に辻文学の柱を理解させるような、とても「強い」書き方がなされている。そして、その「強さ」が逆に読み手の心を深く揺さぶる。とお書きになられているのを見て、さすがだなあ、というような気持ちになりました。
思い出すことの一つ一つは、もちろん、愛惜を伴うものに違いないのですが、感情に身を任せるのではなく、愛しているからこそ、それらをなるべく曇りのない目で見つめなおし、丁寧に確かめなおす、そのことで、故人との時間を再び生きていたのだと思います。そのような対象への接し方は、研究において、時を超えて美しいものに相対することによって得られたのかもしれません。
読みながら思った、よしなしごとをいくつか :
まずは、辻邦生さんの晩年の随筆や、没後間もなく発表された本を手に入れておけばよかった、と痛切に感じました。当時、奨学金も切れた博士課程の学生だったり、任期つきの職を渡り歩いていたりしていた頃で、全集は勿論、ハードカバーの本も購入するのに抵抗があった時期で、結局、買いそびれたままだったのでした。案の定、そういう本ほど再版の可能性が少ないのです。今回、奥様の書かれた文章を読んで、また、無理してでも買っておけばよかったなあ、という後悔が湧き上がってきました(笑)
それから、「西行花伝」に引き続いて辻邦生さんが構想しながらも着手できなかった、「浮船」と仮題をつけていた小説への興味が尽きません。 西行という不世出の歌人を活写した作家が、実朝・後鳥羽院・定家という、三者三様の世の中との関わり方をもった卓越した歌人をどのように描いたのか、それを知りえないのが、かえすがえすも残念です。