昨年、マンボウ先生がお亡くなりになられたとき、自分でも意外だったほど寂しく感じました。 もうすでに相当のお年で、人前に出る機会も著しく減っていたと思いますが、ごくたまにでも伝わってくる消息の断片がいかにも彼らしくユーモラスだったりすると、それだけでほっこりした気分になることができたのでした。
思えば、10 代の前半、「航海記」、「昆虫記」といった「マンボウもの」は、読書の面白さを教えてくれた最初の本たちでした。さらに、同じ著者の作品を興味を持って読みすすんでいくことで、「幽霊」、「楡家の人びと」といった本格的な文学作品に触れることができました。自然に、小説の奥深さに達することができたのは、読書体験の最初のところで、北杜夫という、ユーモア、叙情性、叙事性といった稀有な多面性をもった作家に出会えたことが大きかったように思います。
この本は著者の没後に編まれたもので、未刊行の短編(中篇?)である、 2000 年発表の「巴里茫々」と 1992 年発表の「カラコルムふたたび」の2編が収められています。帯には「最後の小説集」と銘打たれています。
1992 年に発表された 「カラコルムふたたび」は、かつて著者が登山隊にドクターとして同行したカラコルムを再訪し、隊のコックであったメルバーンと再会するまでが描かれています。 登山隊での経験を基にした小説「白きたおやかな峰」の中でも、メルバーンの暖かく、誠実な人柄が、とても印象深く描かれていて、彼に対する著者の親愛の情もひとしおだったことが伺えます。カラコルムの紀行番組を作るためのテレビ関係者と話をしているうちに、自分もカラコルム行きを勧められ、メルバーンに会うために要請を引き受けたものの、鬱で、しかも体調もよくない中の旅程は厳しく、さらに他の地での撮影の時間もあり、結局、メルバーンと話すことができたのは数時間で、しかも、彼は彼なりの問題に直面していて・・・、ということで、再会の感激を心ゆくまで共にすることにはならない、その不完全燃焼ぶりから、それぞれが「老い」と向き合っていることが、じわっと浮かびあがってきます。
「カラコルム」は、基本的に事実に沿った紀行であるようです。これに対し、2000 年に発表された、「巴里茫々」のほうは、挿入されたエピソードの多くは愛読者にとってはエッセイや紀行文でおなじみのものですが、それらが夢や幻想と絡まって、現実の中だけにおさまっていない独特の世界を作り出しています。繊細、というよりはむしろ鋭敏、といったほうがよいような、ちょっと物音を立てれば響き渡ってしまうような静寂を思わせる文章と、そこはかと漂う何とはなしに奇妙な感覚は、初期から一貫した、紛れもない「北杜夫の短編小説」です。
この作品の大きな要素のひとつとして、作品の発表の前年にお亡くなりになった辻邦生さんへの追憶があります。旧制高校以来の親友として互いに相許した仲であり、この小説の中では(本人が読む可能性があるときは照れくさくて使えなかったのかもしれない)「文学の兄」という生な呼び方までしている人を失った悲しみの切実さが、著者の清冽な感覚を覚醒させたのかとも思えてしまいます。辻さんの思い出、そして、もうひとつの大切な要素である(小説「木霊」のヒロインのモデルでもあった?)女性への追慕といった、若い瑞々しいときへの回想と憧憬、また、それらから遠く離れても、なお、自分の中でわずかに燃え残ってくすぶっている、書くことへのいがらっぽい思いが深い情感で綴られています。
小説の登場人物でもある辻佐保子さんが書かれた本におさめられている、「辻邦生と北杜夫」というエッセイの中で、辻邦生さんがお亡くなりになったあとの秋、北さんがたびたび慰めの電話をくれる、という話があって、その中で、「マルセイエーズ」を訳せ、という注文があったことが書いてありました。この小説の冒頭の部分に使うためだったのかなあ、と、思ったりしています。