昨日ブログをお休みしたのは、特に何も書くことがなかったためでした。今年の用事が終わりかかって安心できる休日を迎えて感じたのですが、思ったより草臥れていて、身の回りのことをする以外はほとんどごろごろ、うつらうつらして過ごしていました。
ごろごろしながら、そういえば月曜日の講義に出題するレポート問題を作っていなかった、と気づき(笑)、いくらそういうことに動じないオジサンになったとはいえイブの休日に仕事というのも何だしなあ(笑)という気もして、今日のうちに済ませることにして、また、年賀状が後回しになってしまいました(笑)
午後の数時間、余り人のいない大学で仕事をしたあと、帰宅して一息ついて、夜こそ少しは年賀状に取り掛からなければ、と思ったら、普段はほとんど見ないテレビ番組がこんなときに限って面白そうでした(笑)
まずは、お笑いの番組2つほどでちゃんとしたネタをみることができました。最近、フリートークでひな壇的なものが多くつまらなかったのが、久しぶりに漫才やコントを堪能しました。
深夜、教育テレビでピダハンに関する番組の再放送が放映されていました。最近、ダニエル=エヴェレットの本をとても面白く読んだところだったので、こちらも興味深く見ました。
ピダハンとはアマゾン河流域に住む、他の文化の流入を拒んで何百年もの間、独自の生活様式や世界観を変えずに過ごしてきた部族なのだそうです。彼らの文化はとにかく抽象的なものを受け入れない、という特徴があるらしく、その言葉の中に、時間や、色や、(少しは私に関係する話題だと(笑))数などを表す言葉もなく、情報についても、出所が誰かわからない風評は一切納得せず、伝聞は、それを体験した人が自分の知り合いで信用できる場合しか信じない、という感じなのだそうです。
ダニエル=エヴェレットは、もともとはキリスト教伝道のために、長年生活を共にしながらピダハンの言葉を身につけたのですが、抽象的な概念を一切受け入れずにありのままで満ち足りて暮らしているピダハンには布教の努力は一切通じず、どころか、彼自身がピダハンに影響され、長年の信仰を捨てて無神論者になってしまったのだそうです。 彼はピダハンの言語構造を調べ、従来、生得的であると考えられてきた、生成文法における、文を入れ子にするリカージョンという構造がその中にないのではないか、それは、抽象的な概念を受け入れないピダハンの文化と関係しているのではないか、という説を主張するようになります。これは、現在の言語学で主流派ともいえるチョムスキーやピンカーの唱える、文法はヒトの生物学的な器官を用いて共通して得られるもので文化の影響を受けない、という学説と真っ向から対立する結果になります。
今回放映されたのは、オーストラリアのテレビ局の制作で、ピダハンの映像や、短いコメントながらも、チョムスキーやピンカーによる反論もあり、また、反対する言語学者によるエヴェレットの研究が人種差別的であるとの抗議(妨害?)により、エヴェレット自身がピダハンの集落に行って再調査できなくなったこと、さしものピダハンにも政府による外部の文明の導入が進み、電機や水道やテレビが入り、学校が作られ、それは、彼らの生活を快適にする上では大いに結構なことながら、学術的に興味のある言語や文化が失われつつあることでもあるというある種のジレンマが生じていること、などが報じられていました。1時間ほどで多面的な問題が語られていて、どうしても、ざっと一通り、という感じになってしまったのは否めないかな、とは思いますが、それでも十分見ごたえがあったと思います。
明日こそは年賀状を書かなければなりません(笑)