ここ数年、小学校の先生になる方向けの「小学校専門数学」という講義の一部分を担当しています。最初の5コマ分で、数学教育の先生が、小学校の算数の話題の中から数と図形に関する講義をなさって、それから、幾何の先生と、代数担当の私が、それぞれ5コマずつ、発展的な話を敷衍して行う、という形になっています。
今日、今年度最初の私の講義があり、例年通り、約数と倍数の話をしました。前に書いたように、今年度は、免許更新講習でもよく似た話をしたので、破綻もなく、それなりに順調に行ったつもりだったのですが、どうも、反応が薄いのが気になりました。
いつものように、紹介した倍数の判定法を用いて、大きい数が、4の倍数や、9の倍数や、7の倍数になるか、というような演習問題を提出してもらって講義を終わりにして、時間が足りない場合には、後から研究室のポストに入れておいてもよいですよ、と、伝えました。
そうやって集まった解答用紙を見て、うーん、と考え込んでしまいました。
4桁同士の足し算、引き算や、3桁くらいの掛け算、割り算の間違いが多く、問題文の読み違いもかなりあり、大半のものが間違っていたのです。何か、こちらの説明がいつもと違ったのかなあ、と、思い返してみたのですが、どう考えても、例年通りに説明した、としか考えられません。とりあえず、また、ゆっくりと検討してみたいとは思うのですが。
まあ、計算ミスや、勘違い、というのはよくあることですが、気になるのは、その大半の解答に、「嫌々な感じ」、「面倒くさい感じ」がそこはかとなく漂っているのですね(笑)。
彼ら、彼女らの名誉のために書いておくと、これは、無意識界でのことのようです(笑)。意識としては、小学校の先生になるためにちゃんと算数を教えられるようになるぞ、と、彼らなりに気合を入れて講義に臨んでいるのはわかるのですが、それでも、ちょっと複雑な(というほどでもないと思うんですけどねえ・・・(笑))計算が出てきたり、文章が出てきたりすると、条件反射的に、 ああ、めんどくさい、とか、疲れるなあ、とか、という気分が湧き上がってきて、そういう感覚と戦うほうにかなりのエネルギーが費やされているんじゃないか、と思えてしまうのです。挙句、計算を検討する、とか、問題文を吟味して読む、というようなことに集中できないようにみえます。
数学教育講座に来る学生さんは、何のかんの言っても、数学が嫌いな学生さんはほとんどいないので、普段は触れることはないのですが、この講義に関しては、年々、こういう感じが増大しているように思えます。
本来、若い人は、「決まった手続きを繰り返して課題をクリアする」ということを好む傾向があるのではないかと思うのです。そうでないならば、何で、あんな複雑なゲームやダンスを延々と何時間もやり続けたがるのかわかりません(笑)。だから、計算する、というのも、もっと、違和感無く受け入れられてもいいのではないかなあ、と思うのです。
現に、数学科の学生さん達には、お願いですから次の試験では証明を減らして計算問題を増やしてください、と、よく言われるのですけどね(笑)。
それはともかくとして、では、何で、こんなに嫌悪感を抱かれるのか、というと、①ひとつの方法が十分身につく前に次の方法を覚えなければならなくなり、未消化のものが増えすぎて収集がつかなくなる。 ② 方法を覚えて忘れて、の繰り返しに新鮮さを感じられなくなる、というようなことが原因なのではないか、と推測しているのですが(もちろん、結果を強要されて、そのプレッシャーで楽しみが感じられなくなる、というのもあるのでしょうけど)。
ひとつの方法を時間をかけて身につける習慣をつけて、しかも、ある程度レパートリーが揃ったら、それらを応用したり、関連付けたり、体系付けたりして、なるほど、と思えるときがあったら、だいぶ状況は違ってくると思います。大学に入るまでの教育の段階で、そういうときを持てたら、と、望んでやまないのですが。
そして、また、悪口になってしまうのですけど、いわゆる「ゆとり教育」というのは、教える量を減らしてじっくり考えるようにしたんだ、といいながら、実際は、その分、学ぶ時間も減っているので、同じ割合か、それ以上に未消化な理解が、量を減らして得られるだけ、と、なってしまったように思えてならないのです。もちろん、そのことは、学生さん達のせいではないのですが、彼らは、その課程で身につけた分だけを持って、世の中と対峙していかなければならなくなってしまっているのでしょう。
この小学校専門数学の5コマ分で、どれくらいのことができるか心許ないのですが、それでも、将来、小学校の教員になる方々の数学に対する生理的な嫌悪感に対し、どうにかする手だてを探ってみなければ、とは、思うのです。次の世代に、その嫌な感じが遺伝しないように。