世の中のことがよく伝わってくるわけでもないのですが、それでも、見たり、聞いたりするニュースが、悲しかったり、傷ましかったりすることが多く、ただでさえ、世知辛いなあ、と感じるのに、小説やテレビも暴力や殺人がやたら目につき、恋愛や家庭の話でも、刹那的で、強烈で、スキャンダラスで、奇矯で、となってしまいがちなように思います。よい出来であったり、面白かったりというものあるのでしょうが、どんより疲れているときに、普段はあまり見ないテレビをつけても、青森県の種類の少ないテレビ局(笑)で放映されている番組の大半が、サスペンスや刑事物だったりすると、みんな、どれだけ不幸や残酷を見たいんだ、と、がっかりしてしまうことがあります。
幸せを常に感じ続けるということは、実は、とても難しいのかもしれません。新鮮なうちは充実していても、繰り返され、慣れてしまうと、無感覚になってしまい、より強い刺激を求めることになるのでしょうか。
それでも、やはり、何気ない毎日、日々のささやかな出来事を慈しんで生活することが、本当は、一番素敵で、幸せなことだと思うし、そういう生き方に触れることのできる小説を読みたいとも思うのです。
著者は、澄んだ目で、暖かく日常を綴った、稀有な方でした。初期は、不安感の漂う、張り詰めた短編もあったのですが、昭和 40 年の「夕べの雲」のころから、昨年、惜しくもお亡くなりになってしまう直前までの半世紀にわたって、家族と過ごす明け暮れの、食卓での語らい、ご近所の人の逸話、庭に咲く花や、訪れる小鳥達、など、本当に身の回りのことを、無防備といってよいくらいに何気なく、それでいて、味わい深く、書き続けました。最初に小説に登場したときは小学生だった、著者のお子さん達は、学校を卒業し、就職し、結婚し、親になり、その方々のお子さんも結婚し、孫まで持つ(つまり、著者が曽祖父になる)ことになります。1日1日の繰り返しを書き続けることが、家族の年代記となったのです。
初めて著者の作品に触れたのが 10年くらい前なので、偉そうなことを書きながらも、その長い歳月の5分の1ほどしか同時進行で読んでいません。それでも、著者の本を見つけると買いうようになり、結構な量にはなりました。
そういえば、どれくらい、庄野潤三さんの本を読んだんだっけ、と、思って、書棚の中に、適当に積み重なって底板を支えていたのに構わず、えいやっ、とばかりに抜き出そうとしたら、上に積んであった本の山が崩れ落ちてしまい、こちらに移り住んで以来、5年間無傷だった障子を破いてしまいました(笑)。名実ともに(?)、これらの本は、私の書棚の重要な部分を担っていたことになります(笑)。どうでもいいことですが。
で、抜き出した本が都合 23 冊で、そのうち、15 冊くらいが、家族との日常を書いた小説で、それ以外が、随筆、紀行文、評論などです。「家族もの」を出版年順に並べると、こんな感じになります。だいたい、文芸誌に連載されていた出版の前年の生活が文章になっているようです。
「夕べの雲」(昭和 40 年)
「小えびの群れ」(昭和 45 年)
「絵合せ」(講談社文芸文庫、昭和 42 年 - 昭和 46 年までの作品からの選集)
「インド綿の服」(昭和 63 年)
「貝殻と海の音」(平成 8 年)
「ピアノの音」(平成 9 年)
「せきれい」(平成 10 年)
「庭のつるばら」(平成 12 年)
「山田さんの鈴虫」(平成 13 年)
「うさぎのミミリー」(平成 14 年)
「庭の小さなばら」(平成 15 年)
「メジロの来る庭」(平成 16 年)
「けい子ちゃんのゆかた」(平成 17 年)
「星に願いを」(平成 18 年)
「ワシントンのうた」(平成 19年)
で、言いたいことは、「 昭和 40 年代後半から50 年代くらいまでが手薄」(笑)だということです。著者の本を読むようになって以降は、リアルタイムで手に入れていますし、昭和 40 年代くらいのものは、文庫になったものを買ったり、古本を見つけたりして、少しは揃えたのですが。
ようやく、標題の本の話です(笑)。今回文庫化された「野鴨」は、出版年が 昭和 48 年で、今まで読んだことのなかった時間を、少し埋めることができました。その前にあたる「絵合せ」という作品集では、著者の長女が結婚を控えた時期が描かれていたのですが、その方は、ここでは、乳飲み子を抱えた母親になっています。嫁いだ、といっても、著者夫婦の近くに住んでいて、頻繁に行き来しているので、大学生の長男、高校生の次男と一緒に、物語にもよく登場します。
近所の人間模様は、家族を介して伝わることが多くなっています。ふと、以前の話の切れ端を思い出した著者が、誰かを捕まえて、そういえば、あの話ってどうだったんだっけ、というように、改めて、話を聞きだす場面もしばしばあります。著者は、家族の話を聞き、庭の木々や鳥を愛でる、というように、受容し、味わい、思い出す人として、物語の真ん中に位置しています。ひとつひとつは、些細な、他愛のないエピソードですが、それらが不思議な調和を感じるように配置され、著者と家族を取り巻く世界が、慈しみを持って描かれています。
邪悪なもの、悲惨なものは何一つ存在しません。物語から丹念に取り除かれているのでしょう。そのことは、偽善にも、不誠実にも感じられません。このように書こうとする意志の強さ、切実さの故だと思います。
著者がお亡くなりになった今、残念ながら、もう、物語の続きを読むことはできないのでしょうが、現在手に入らない、他の著作の再刊を待って、まだ読んでいないこのご家族の時間を私の中で埋めることができればと思っています。