2011年11月25日金曜日

ゲシュタルトなの?

このブログでも何度か愚痴っているように、提出されたレポートを添削するたび、うろ覚えらしき記号を意味が通らないのに書き並べてある解答を読むはめになり、何とも気持ち悪い思いをすることになります。試験場で他に手だてがなくなったとき、切羽詰って、記憶にある残像を一か八かで書く、というならば、評価しないながらも(笑)心情的には理解できなくもないのですが、時間もたっぷりあって、何を見てもよいし、誰に聞いてもよい(誰に、という中には、ニシザワセンセイも含まれる)と言っているレポートで、どうしてそんなことをするのか、よくわからないまま何年か経っています。

最近、ひょっとしたら、彼ら・彼女らは、物事を「分析」できてないのではないか、というような仮説(?)をたててみています(笑)。 分析、というのは大げさかもしれませんが、困難を分割し、それらひとつひとつの段階を組み合わせて体系だった考え方をするということです。説明したり、講義ノートを書いたりするときも、そのように聞いたり読んだりしていただこうとしているつもりなのですが、これらも、何となくまとまった「ひとかたまり」として受け入れられてしまって、説明を聞いてノートをとったり、証明を読んだりしたときでも、するすると頭の中に入れば、ああ、わかった、と、それ以上の吟味せず、自分が説明したり、答えを出す側に廻ったときは、そのもやもやしたかたまりをもやもやしたまま再現しようとする、という風になっているのではないか、と、感じてきたのです。講義をしたり、ノートをHPに載せたり、というのは、もちろん、まずはそこにあらわれたものを模倣してください、というつもりで行っているのですが、私としては、考えの手順の立て方や、考え方の姿勢みたいなものを真似してほしいわけです。それが、受講している方々は、文章を何となく口真似する、というようになってしまっているのかもしれません。

暗記してある公式に代入すれば終わる計算や、ひとつふたつのセンテンスで書ききれる証明ならば、ひとまとまりを一気に覚えれば通用するのですが、長い思考はそうはいきません。大量の情報を総体として読みとろうとすると、メモリーに限度がある場合は解像度を落とさなければならなくなるので(笑)、細部まで明確に再現できず、見覚えのある記号や用語の断片の残像を覚束なく書き出す、ということになってしまいます。

証明などの論理的な手続きは、いくつかのステップが整合して全体の論証を形作っています。理解するためには、一読して大まかな流れを掴んだ後、それらの文章がどのような段階に分かれているのか、そして、どのように組み合わさっているのかをひとつひとつチェックする必要があります。証明を読み解くためにそのような作業をするということが出来ない、というよりは、そのような必要を感じていないように見えてしまうときがあるのです。

実は、特に自分がすでにわかったつもりになっていることに対してこの手続きを行うのは、最初はとても面倒なことではあります。例えば、スポーツで何となく無意識に動いていてもそこそこの結果が出ているのに、フォームをきちんと矯正しろ、と言われているようなもので、これぐらい出来ているんだからいいじゃないか、と、思って身が入らないままに練習していると、以前の癖がいつのまにか出てしまう、ということになってしまいがちです。

しかし、そんな面倒なことでも、きちんとできるようになっておくべきであるいくつかの理由があります。

まず、物事をより正確に考えることができるうえ、間違いが起きたときにも修正しやすい、ということです。先ほども書いたように、もやもやとしたひとまとまりの思考過程を行っても、誤差が多くなります。さらに、結果が思わしくないときは、全体の行程を再度、覚束なく繰り返さなければなりません。手続きをはっきりさせておくと、それらを一つ一つクリアしたか確認して、どこまで出来ているかを明らかにすることができるので、間違ったときに、どこのステップで躓いているかをチェックしやすいのです。

また、質問したり、説明したり、と、情報をやりとりするときには、手順を明確にする必要があります。学生さんが質問にきたとき、どこがわからないの? と聞き返しても、どこがわからないかわかりません、ともかく、全部です、みたいな返答が帰ってくることがときどきあるのですが(笑)、それは今考えている問題の解決方法をどのように順序だてるかを把握していないからだと思います。逆に、誰かに方法を教えるときに、全体としては何となくこんな感じ、では伝わりません。将来、数学の先生をめざしている方が多いわけですから、物事の手続きをきちんと説明できるためにも、分析的な視点は必要だと思います。

さらに、考えが多彩になります。思考の手続きが明確になっていると、それらのパーツを入れ替えることによって、考え方のバリエーションを増やすことができるのです。創造力、というのは、何もないところから「ひらめく」ことで、それは体系化や論理的思考とは対極のことだ、という考えもあるようですが、私は、それには賛成できません。今まで分かっていない新しいことを見つけるためには、まず最初に、試行錯誤することになると思いますが、そのためには、試行錯誤するだけの選択肢を考えなければなりません。そのためには、さっきはこういう考え方をして駄目だったから、今度は、この部分を変えてみよう、というような形を繰り返すことになると思います。ただ、ざっくりと大まかにあてずっぽうに試して、図星になるものが降ってくるのを待つ(笑)、というようなものではないように思います。また、例えば、仮説Aと仮説Bのどちらが正しいかどうか実験する、という状況ではは、AならばああなってBならばこうなる、という状態を人為的に作らなければならないわけですから、論理的に分析された考え方が必ず必要になります。

そのようなわけで、分析的に、体系化して物事を考える必要が十分にあるはずなのですが、最初に書いたように、どうも、ここ数年、そういう部分が心もとなくなっている印象を受けます。覚束ない仮説の上にさらに心もとない仮説を積み重ねる感じになりますが(笑)、その原因らしいものとして、次のようなことを思ったりしています。

数学に関する部分では、やはり、高校までの授業時間数減少の影響は大きいと思います。 5,6年前までは、中等教育の中で、2,3ステップくらいの論証はある程度身についている、という感覚があったような気がします。しかし、授業時間数が減る一方で、本質的な事項はそれほど減っていない上に大学入試もある、というような現状では、この手の問題はこの公式を覚えて値を代入すればOK、とか、この問題はこのパターンの解法で、というような指導が多くなってしまったのではないかなあ、と、勘ぐってみてもいるのです。 さらに言うと、大学入試、というのは、いたちごっこ的な側面があって、出題する側は、思考過程を試したいとあまり手垢がついていないような問題を出したつもりでも、実は、それほど斬新ではなかったり(笑)、最初は斬新であっても、そのようなものが2,3回続くと、すぐに、このパターンの問題の解法は・・・、というような形で捉えられてしまったり、ということになってしまうので、入試を通じて、なかなか、その辺の必要性を伝えることが難しいところもあります。

数学以外の部分でいうと、世の中のサービスがいろいろ進んだので、「わかりやすい」情報伝達が多くなったということもあるかもしれません。 確認して、考えながら物事を理解してゆく、ということは、文章を読んで身につけてゆく側面も大きいと思うのですが、最近、世の中の進歩で画像や音声によって伝達される情報の比重が以前より大きくなっているように思います。さらには、活字のほうも、「読みやすい」本が大量に流通するようになってきたのかなあ、という気もします。数年前、大学での勉強のイントロのような1年生向けの「基礎ゼミナール」という科目を担当したとき、班分けをして、自分の紹介した本を班内の人で読み合う、というような企画をやったことがあり、そのときに思い知ったのは、高校生の「読書」って、ラノベかハウトゥーになっているんだ、ということでした(笑) そういうものって、駄菓子みたいな娯楽的なものや、「ウィーダー・イン・ゼリー」や「サプリメント」みたいな補助的なもので、基本としては栄養と歯ごたえのあるものをきちんと食べないといけないんじゃないか、とも思うのですが、やはり、読みやすいものを苦労なく読むほうが楽しいのでしょうから、大半の読書がそうなってしまうのでしょう。 テレビか何かで、年間何百冊本を読んだ、と、言っている方を見たことがあるのですけど、それらのほとんどが1日1冊読めるような本だったりして、最近の読書って、そういう傾向になっているのかなあ、と思ったりすることがあります。

しばらく前に、とあるお知り合いの方と、最近、学生さん達、論理をきちっとしないよねえ、という話になって、それって大学に入るまでの数学でそういうことをする機会が減っているからなのかなあ? と、ひとしきりそういう話をした後、そういえば、文章表現でも論理らしいことって希薄になってきたよねえ、ということになり、要するに、結局、論理という思考様式に抽象化される具体的な経験がまんべんなく薄いんじゃないか、という結論になってしまったことがあります。

このように、現状を延々と書き連ねることはできるのですが、肝心の、では、どうしたらよいのか、ということについては、なかなか有効な手段を打つことができないでいます。講義では、なるべくそういう意識を持っていただけるようにはしたいと思っているのですが、そもそも、講義、というものは、自分で体系付ける前に、大まかな「一連の流れ」を把握するためのものなのです。聞いているうちにすらすらと話が進んで、教える人が大体のことを解決してしまいます。

物事を分析して論理立てて捉えるということは、一人ひとりが、それぞれの頭の中で行うことで、勉強する方が自覚的に思考することを通してしか、身につかないことなのですね。ですから、自分で本を読んだり、問題を解こうとしたりする、という機会を大切に、能動的に取り組むことでしか、得ることができません。

そのために、特にためになるんじゃないかと思うことのひとつは、やはり、誰かに説明してみることです。言語化を通じて考え方を明らかにできますし、明確ではない場合には聞き手から質問がありますので、自分でわかったつもりでいたのに実はわかっていなかったところに気づくこともあるでしょう。セミナーはもちろん、演習や、それから、友達に答えたり、友達に質問したり、という機会を大事にしていただきたいと思います。 

もうひとつ、一人で勉強するときに、意外と効果的なのが「外国語の本を読む」ということです。外国語だと、時には辞書を引いて単語の意味を確認してから、一文ずつ翻訳して、それから、この文でこういうことを言っていて、次はこういうことを言っているんだけど、これらはどのように繋がっているんだろう?というようなことを考えながら読まざるを得なくなります。日本語の文献だと、慣れすぎていて斜め読みして通り過ぎてしまうようなところを、確認しながら読むことができるのです。といっても、英語で斜め読みができるようになってしまうと、結局変わらなくなってしまいますが・・・(笑)

そして、何よりも、このように自分の考え方のフォームを矯正するには、その専門に必要とされる思考様式にどっぷりとつかって、わき目もふらずに勉強することで、考え方を確かなものにしなければなりません。非自覚的に流れで考えようとすると、また、もとのもやもやした何となく考える方法でしか思考できなくなってしまいます。

大学という場所のよいところは、自分の勉強に浸ることができる時間と環境が与えられることだと思います。それをうまく活かして、きちんと考えることを身につけていただきたいとは思います。