太宰自身は、この家について、「風情も何もなく、ただ大きいのである」と書いているそうですが。
太宰が誕生した部屋(小間)です。
「津軽」を読んでいると、太宰が、それまで散々世話をかけてしまった実家の兄達との距離の取り方をはかりかねていて、それが故郷に対する複雑な気持ちと交差しているように見えるところがあります。実家を訪れたときに兄ふたりと婿さんが酒宴をしている最中で、席をともにしようか躊躇した後、彼らと合流して飲み始める部屋がここです。
文庫倉だったところが展示室になっていて、手紙や原稿類が展示されていました。こちらはさすがに撮影禁止です。太宰がパビナール中毒から回復して退院したときの井伏鱒二からの手紙などと一緒に、太宰が兄に宛てて、自分の精進を繰り返し誓いながら芥川賞がとれそうだというようなことを書いたものと、川端康成に宛てた、芥川賞を自分に与えて欲しいという懇願に似た手紙も展示されていました。
一方で、「津軽」の中でも親戚や知り合いの女性たちとは随分リラックスして付き合っているようで、実際、そこにも登場する兄の娘さんへの手紙などでも、物柔らかで優しい小父さんぶりが伺えるようにも思います。
展示物の中には、海外に翻訳された太宰の作品も展示されていました。教育学部のウェスターホーベン先生の "Tsugaru" の原稿もありました。
米蔵だった建物の中では、小学校での綴方から中学、(旧制)高等学校、大学へと続く、太宰の文章を展示してありました。中学時代の太宰の書いた文章は、芥川の影響を受けているのが伺え、興味深く感じました。
もともと、この家にはさらに離れがあり、長らく勘当されていた後、初めての訪れになる夫人を連れて病床の母を見舞う「故郷」という小説の舞台になっている上に、太宰が戦時中に疎開したのだそうです。戦後、斜陽館が人出にわたるときに移築され、現在、その部分が「太宰治疎開の家」として残っています。こちらは町ではなく、個人経営で、入り口がショップになっています。
戦時中、書斎だった場所だそうです。疎開中、太宰の創作は順調だったようで、20 数作の小説の他にエッセイ、評論などを書いたとのことです。「パンドラの匣」、「親友交歓」、「トカトントン」など、ろくに太宰を読んでいない私でも知っている(笑)名作もその中に含まれています。
洋間です。上に乗っている写真は、太宰が兄弟とともに写っている有名な写真で、この前で撮影されたものだそうです。
こちらの人たちの気質についての誤解があるんじゃないかなあ、と、思うときがあります。どうも、テレビなどに出てくる津軽弁であけっぴろげにまくし立てるタレントさんみたいな人たちが典型的な津軽人だと思われているようで、私が弘前に赴任することが決まったとき、ああいう感じの人達とお酒を酌み交わして騒ぎ合わないと打ち解けられないで浮いてしまうんじゃないか、ニシザワみたいな酒も飲めない上に人見知りと引っ込み思案が 7 :3 で混ざっているようなヤツが(笑)うまくやっていけるのか? と心配され、そういわれて、私自身も当初は心配だったのです。 実は、津軽の人たちの多くは非常に繊細で、話が思いがけないことに踏み込んだりしてしまい、こっちが困惑する気配を示そうものなら、向こうはもっと恐縮して、すっと引っ込んでしまいます。そういうことに関しては、私の知っている東京や千葉の人よりもずっと敏感だと思います。一方で、何かをお願いしたりすると、非常に熱心に、こちらのためになろうと努めてくれます。この頃ではこちらの方々のそういう気質に乗っかっていて、津軽で過ごすのはすっかり気に入っています。ただ、誰かの為に何かしてあげる、とか、誰かをもてなす、となったとき、今まで遠慮していたりためらったりしていたことを恥じて再びそういう気持ちにならないよう自分を追い込むかのように夢中になってしまうそうで、その方向でスイッチが入ってしまうと、「ほどよく」というのは「手抜き」とイコールに思えてつい力んでしまい、熱中しすぎて辺りが見えなくなって「そつなく、手際よく」とはいかず、往々にしてトゥー・マッチになってしまう傾向があり、それをデリカシーがないように勘違いされてしまうということがおきかねないようです。ブラウン管の中で、または、観光の売り物として作られたイメージは、そっち方面に振り切れてしまった後なんだろうなあ、というものが少なくありません。「津軽」のなかで、太宰を一生懸命もてなそうとして、そういう狂態を演じてしまう登場人物に対し、太宰が深い共感を感じる場面があります。そして、
「生粋の津軽人というものは、ふだんは決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情によって、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらよいかわからなくなって、『ぶえんの平茸ここにあり、とうとう』といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙されるくやしい結果になるのである。」 (『津軽』の「蟹田」の章)と書いています。
もしかすると、太宰の無茶なところや卑屈なところも、そういった気質と関係すると思えば、少しは彼の作品を読むとっかかりになるかもしれないなあ、とも思え、機会があれば、今さらながら、ではあるけれど、太宰の作品を少しまとめて読んでみようかという気にもなってきました。
斜陽館の近くにある「津軽三味線会館」ものぞいてみました。津軽三味線や津軽民謡の歴史に関する展示がありますが面積はそれほど広くなく、メインは、時間を決めて行われる生演奏だといってよいかと思います。 ただし、時間の都合で演奏時間まで待たないことにしたので、ざっと、眺めただけで出てきてしまいました。次回来るときがあったら、演奏時間を考慮して寄りたいと思います。
先を急いだのは、芦野公園も見たいと思ったからでした。
歩いて 2 km くらいらしいので、案内板に従って歩いてみました。途中、小学校の横にこの碑を見つけました。太宰が通った高等小学校だそうです。彼の小学校の成績はよかったらしいのですが、彼の兄は、家が豊かなせいで学校の先生が特別扱いしたのではないかと危惧して、小学校卒業と同時に中学を受験させず、高等小学校に通わせたのだそうで、そのことも、太宰のコンプレックスの一因になったようだ、と斜陽館の展示に書いてありました。
程なく芦野公園に到着したのが、13:30 頃で、そういえば昼食もとらなければ、と、津軽鉄道の芦野公園駅(春や秋の鉄道写真のスポットとして有名ですが)の横の喫茶店に入ってみました。以前の駅舎を利用して営業していて、雰囲気はよさそうです。入ってみたら、店の方は2人くらいしかいない小さなお店で、私の前に来たと思しきおじさん4人連れがまだ注文を待っていた状態だったので、これは少し時間がかかるかなあ、と、思い、他にお店一押しの料理もあったようですが、早くできそうで、たぶん量もそれほど多くないであろうトーストとコーヒーを頼みました。 先にきた彼らの料理を見るととてもボリュームがありそうで、選択に間違いがなかったことを確信しました(笑)
店のキャパシティに対してお客の数が多かったのでしょう。私の分が来るまでしばらく時間がかかり、ぼんやりと窓の外を見ていると、雨つぶが落ち始め、そのうち、雨足が強くなってきました。やってきたトーストをかじりながら、まだ降り続くかなあ、弱まるのを待ったほうがよいか、と、コーヒーを啜っていると、雨に降られた様子のお客さんが何組か入ってきて混み始めました。 先に来店していたグループも出かけたようで、一番長居しているのが私になってしまい、そろそろ出たほうがよいか、とお勘定を済ませて出ようとすると、お客さん、これ、と、お店の方が、私が忘れていた、コーヒーの付け合せのクッキーを手渡してくれました。
公園を歩いてみようかと思ったのですが、雨がすっかり強くなっていて、肌寒い中、ジーンズが湿ってしまいそうだったので、様子を見るべく近くのあずまやに入りました。早い列車で五所川原に行くか、晴れるのを信じて列車を遅らせても待つか、と、クッキーを齧りながら思案したのですが、待ったところで雨が止むとも限らないし、まあ、次の機会もあるだろうから、と、早い列車で発つことにしました。初めての芦野公園は、何十分か、あずまやで雨宿りして終わりました(笑)
芦野公園は無人駅で、乗車時に整理券をとって降りる駅で料金箱に料金と入れてください、と表示がありました。列車に乗ったら、整理券が出てくる機械にふたがされていて、あれ? 整理券を取らなくていいのかなあ、と、アテンダントさんに聞いたら、この列車はワンマンカーで車掌が乗っておりませんのでおりるときに料金を支払ってくだされば結構です、と言われて、ああ、そうですか、と納得したすぐ後に、切符を買っていない方は申し出てください、と言いながら車掌さんが来たので、結局切符を買いました(笑) 何が正解だったかわからないままです(笑) やっぱり、そつなく、というわけにはいかないようです。
五所川原に向かう車中で、すでに雨がやみました。こんなことなら、もう少し芦野公園で待っていてもよかったかなあ、と、ちょっと後悔しましたが、後の祭りでした(笑) 雲は薄れ、車窓から、うっすらと岩木山が見えはじめました。