2010年7月29日木曜日

学校の先生になるのに大学の数学は必要ないのか?

相手が自分の話をつまらないと思っているのかな、と感じると話をやめたくなってしまう、という一見控えめに見えて実はわがままな(笑)場所を選ぶおしゃべりです。そのため、内心嫌だと思っていても中々顔には出せない(笑)年下の友人や学生さんは、延々と私の話を聞かされる破目になることがままあります(笑)。このところ、授業以外はほとんどひとりで雑用を片付ける生活をしていたので、最近の専らの犠牲者(笑)は、この春から私のゼミに入った大学院の学生さんで、毎週、16:00 頃からゼミが始まって18:30 くらいに終わるのですが、その後、私のおしゃべりに付き合わされて、じゃあまた来週、と終わるのが、結局  20:30 くらいになったりしています。

今日、ゼミ終了後、その学生さんが、自分は学部は数学科卒ではないのですが数学の先生になろうとしていて、それなら数学をしっかり勉強しようと考えて、代数のゼミを志望したんですけど、結局、数学の先生として必要な知識を測るものとして教員採用試験が設定されているんだから、それくらいのことを知っていればいいんだ、という考えもあるみたいなんですよね。大学で数学を学んで、先生になって役立つことってどんなことなんでしょう?、というような質問を始めて、地雷を踏んでしまい(笑)、 ニシザワセンセイの長口舌の餌食になってしまいました。

そのとき、数学を勉強しておいたほうがよいと思うよ、といって、次の理由をお話しました。

1.まず、「教えていることの背景、必要性、展望を理解しておかなければならない」ということです。例えば、三角関数、指数関数、複素数、行列、微積分などについて、どのようにものの見方が広がるのか、どのような現象を記述できるのか、というようなことを理解して、納得する説明を行えないと、教わる側が、どうしてこんなものを考える必要があるのか?という疑問をもやもやと抱きつづけ、その考えに馴染まないままで学び続けることになってしまうように思います。教えることに取り掛かる前に、「その考え方は、どのようにして導かれたのか」、「どうして、そのような考え方が必要なのか」、「それを学び続けると、先に何があるのか」ということに関し、論理的な必然性と、歴史的な経緯を学んでおいてしかるべきだと思うのです。

そして、例えば、少年、もしくは中・高生にサッカーを指導する方は、自分が教えている子供達がワールドカップを見ているときに、あれが「凄い」ことなんだよ、とか、あのプレーのここが「凄い」んだよ、ということは言うのではないかと思います。そこで養われる憧れが、教わる方々を次の目標に駆り立てるのではないでしょうか。数学(に限らず、他の学問でもそうですが)の教師が、こういうことが「凄い」ことなんだよ、ということを教える場で紹介できる、ということが、知ること、学ぶことへの憧れを養うのだと思います。

2.次に、「教えていることの『構造』を理解しておかなければならない」という ことです。今、教えている内容について、どのような対象の間に、どのような操作や関連付けがあって成り立っているかがはっきりしたときに、初めて、児童・生徒がどのステップがわからずに足踏みしているかを考えることができるのではないかと思います。この前にした、文法のたとえ話はそういうことです。分数は同値類別で、空間は移動の群によって不変な集合で・・・、なんていうと、それを児童・生徒に教えるわけ?とか、児童・生徒がそれを意識しているわけないでしょ、という反応になってしまいそうですが、教える側がそのような視点をもつことで、例えば、ある変換の逆があるのに気づかないのかな、とか、変換の合成が可逆なのに気づかないのかな、というように、今、許されている操作のうちのどこが理解できていないのかを整理して捉えられることがあるのではないか、ということです。

などと書くと、思い当たる方もいるかもしれないので、慌てて付け加えておくと、前にもちょっと書いたとおり、ここ半年くらい、趣味で、ピアジェの本を読んでいて、ヒトが数や図形を認識するプロセスはこういう風に捉えられるんだ、というのが、とても面白かったのですね。彼の本に出てくる「数式」や「論理」は、ときおり、曖昧だったり、意味を成していないんじゃないか、というところがあって、それが正しいのか、とか、私が理解できているのか、というようなことが心もとないところもあるのですが、その考えの根本的な部分に、数学的な対象の認識、ということは、構造主義的な意味での「構造」、というか、更にさかのぼって、(ブルバキに由来するような)数学的構造が、各人の思考の中で構成されることである、という視点があるのは、間違いないように思えます。

面白かったので、調子にのって、小学校の先生を希望する方々とゼミでこういう本を読んでみてもよいのかな、と、ちらっと思わなくもなかったのですが、そのためには論理と群論と位相のある程度の感覚は必要なんですよね(笑)。 で、ちょっときびしいかなあ、と、やめてしまいました。ですから、内心は、小学校の先生になる方でも、これくらいの数学的な素養はあったほうがよいのではないかと思うのです。

3.さらに、「数学の本の読み方を身につける」ということがあります。 ゼミを始めたばかりの学生さんによくあることなのですが、テキストの主張を、「本に書いてあるから」、「確立された事項」だ、と思ってしまい、証明されるべきものであることが思いもよらない、ということがままあります。数学の本は、基本的には、今まで証明しておいたことと定義したことを用い、新しい主張を証明する、ということの繰り返しです。「ここまでで知っていることは何か」、「今、導入した定義はどういうことか」、「既知の命題と仮定した条件を使って新たな主張をどのように証明するか」ということをひとつひとつのセンテンスで確認しながら読まなければなりません。その上で、初めて、書いてあることが正しいと確信することができるのです。もちろん、そのことは、大学でだけで行うことではなく、「教材研究」においては、そのように教科書を検討し、行間を読み取り、眼光紙背に徹するということがまず最初に行われるべきでしょう。「数学の本の読み方」を身につけていないと、教科書の定理や公式を散発的な主張として片付けてしまい、本来考えるべきことに気づかない、ということになってしまう恐れが多分にあります。そして、あるべき「読み方」というのは、ゼミという形式で本を読まないと、なかなか身につかないのです。

大学を卒業して先生になった方が定年まで勤めるとすると、30 数年程度の時間があることになります。その間、教える内容が全く変わらない、ということはありえないでしょう。例えば、今度、高校で複素数を教える、ということになる、という話がありますが、若い先生方の中には、大学まで複素数を習ったことがない、という方も結構いるはずです。新たに勉強をしなければならないわけですが、そのとき、教科書と指導書しか読まない、というわけにはいかないでしょう。生徒により充実した内容を教えるためには、補足的に他の本も読むこともあるはずです。そのとき、ひとりで数学の本を読めるようになっておかないと、新しいことを学べなくなってしまうということになりかねないのです。

私は、数学の本をセミナー形式で読むという科目を、数学教諭の免許の必修としたほうがよいのではないか、とさえ思っています。

4.最後に、これは数学だけのことではないのですが、「わからないこと」が「わかる」という経験をしておくべきだ、ということです。現状では、大学までの受験勉強の戦略として、苦労せずにわかるところをなるべく早く多く片付けて、わからないところはほうっておく、そのようにある教科を勉強した後は他の科目にとりかかる、そうして、手間がかかりそうな部分は捨てて、苦労しないでわかる範囲でなるべく得点を稼ぐ、ということが効率的だ、と考えられているように思います。その結果、何時間も何日も考え続けて問題を解決する、という経験を持たず、分からない問題を継続して考える術を持たないうえ、「わかった」という感動すら経験せず大学に入ってくる方も多いように感じます。

「わからない」ことにぶつかるのが大学入試前後だと、その後は何とかそれで切り抜けて、ということもできるのかもしれませんが、教員になると、間違いなく、「分数がわからない」、「方程式がわからない」というように、授業で教えるその段階がわからないという児童・生徒の方々に出会うでしょう。その「わからない」ことを「わかる」に変えることを求めるのですから、教える側も、その経験を持っていて然るべきでしょう。

「わからない」を「わかる」に変える、ということで世界の見え方が変わる新鮮な驚きは、学ぶことを機械的な暗記にしないために最も大切なものだと思います。その感覚を体験したことがない方に、学ぶよろこび(というと、学習指導要領っぽくなってしまいますが(笑))を伝えることはできないのではないか、とも思うのです。

・・・と、こんなことをしゃべっているので、2時間くらい平気で経ってしまい、ゼミと雑談とどちらが長いのかわからなくなっています(笑)。でも、これだけ並べれば、大学での数学もきちんと勉強するべきである、という気分にはなっていただけるのではないでしょうか(笑)。