長谷川潾二郎の絵が「シュール」と言われることがあります。確かに、端整で静かな彼の絵の中に、かすかに不安な、落ち着かない気分が漂うことがあります。でも、それを、「シュール・リアリズム的」だと思うのには、ちょっと違和感を感じてしまうのです。前回、「トロンブルイユではない」という、洲之内徹の言葉にうなずいていた、と書いたのもそういうことなのです。
シュール、と言われて思いだすのは、例えば、ルネ・マグリットやキリコで、実は、私は、特にマグリットは好きなのですが、あのような独特の細密で美しい静謐な雰囲気の中に漂うそこはかとない不安感のようなものが共通するということから、長谷川潾二郎がシュールだといわれるのかもしれません。ただ、そこで作られる「落ち着かなさ」が、人為的かどうか、という部分が、シュールリアリズムとは決定的に異なるように思うのです。
絵を見たときに感じる不安感、というのは、今まで人が安心して凭れかかっていた自らのものの見方を、揺るがされることから来るものなのだと思います。例えば、マグリットは、美しいものの中に、非現実な、普通ではないものを意図的にそっと忍ばせ、そのことで、ありふれた「ものの見方」を問い直しているのでしょう。それに対し、長谷川潾二郎の描くものは、あくまでも現実と同じたたずまいを見せて存在する「もの」で、そこに何の仕掛けもないのです。
言うなれば、シュール、というのは見る人を「驚かそう」としているのですが、長谷川潾二郎は、見ることによって、自身が「驚いている」、ということなのだと思います。かすかに漂う心もとない雰囲気は、身の回りのものを、私たちが今まで体験したことのないほど深い、この画家の眼で見つめる、ということを促されることからくるのだと思います。そこには、人にどのように見せようか、という、意図や計算は全くといってよいほど感じられません。
長谷川潾二郎は、アンリ・ルソーに似ている、と、言われることもあるようです。自身も、アンリ・ルソーについてコメントしたりしていて、関心を持っていたことを伺わせるところもあります。確かに、シュールである、というよりは(笑)納得できるところもあるのですが、それでも、微妙なところで、彼ら二人の肌合いは違うようにも感じられます。
かなり独断的かもしれないのですが、長谷川潾二郎と比べると、ルソーでさえも自らの様式について自覚的だったように思えてしまうのです。アンリ・ルソーは、もともと、収税吏の傍ら絵も書いていた日曜画家、というイメージがあるのですが、それでも、彼の絵をみると、あの「ナイーブ」が、自らを最も的確に表す、というか、演出するスタイルであることは意識していたのではないかなあ、とは、思えてしまうのですね。もちろん、それが悪いことだと言っているわけではありませんが。
対して、長谷川潾二郎は、自分の絵の「キャラ」をどう立てていこうか、というような意図が感じられないのです。最初の頃は、その時代を反映した、モンパルナスの画家たちを連想させるような控えめなキュビズムを感じさせるものもあるのですが、時が経つにつれて、意図的なものがどんどん排除されていきます。逆説的なのですが、排除されて、何気ないものを、いかにもさりげないように、でも、丁寧に端整に描くだけ、となっていくにつれて、独特の比類ない美しさが際だってくるのです。彼の画業の大半は、画壇との付き合いもなく、小数の応援者に支持されながら、ひっそりと自分の絵を描き続けていたようです。 どのように見せようか、という計算とは無縁な場所で、ひたすら物を見つめて、前回書いたようなストイックな戦いをひとり静かに行っていたのです。
で、個性、って何なのだろうなあ、と、考えてしまうのです。
「精神的なものが精神を覆い隠す」とは青山二郎の名言で、河合隼雄が「こころの処方箋」で引用してさらに有名になりましたが、それを真似て、
個性的なものが個性を覆い隠す
といってみたい気も、ふっと起きたりするのです。
社会でも、教育現場でも、人に、子供に、「個性的」であることを求めます。それが、自分を目立つように人に見せろ、とだけしか言っていないんじゃないか、と思うときもあるのです。本当の自分、というのは、自らの道に勤しむことを、繰り返し繰り返しすることで、避けがたく、揺るぎがたく結実したものなのじゃないかなあ、とも。