2010年11月16日火曜日

いたたまれない

古館さんのしたり顔のコメントが性に合わないので、あまり、「報道ステーション」は見ないのですが(笑)、今日は、偶然、チャンネルを変えているときに特集の報道が目に入り、思わず、見続けてしまいました。

2004 年に教員採用試験に合格したものの、初めての赴任で担任を持ったクラスがいわゆる学級崩壊になり、半年後に自殺をしてしまった、という方についての、本当に傷ましい報道でした。

ついつい、私に縁のある学生さんがこんなことになってしまったら、と考えて、いたたまれない気持ちでいっぱいになったまま、とつおいつ色々なことを考えてしまいました。

教育について、何か考えたり、言いたくなったりすることがあっても、普段は、仕事柄、大抵、数学のことになってしまうのですが、教科教育、という前に、現場には、そもそも、「教育」を成り立たせるための、こんなに過酷な現実がある、ということなのでしょう。

教育の微妙さ、ある意味での残酷さ、というのは、教わる側が教える側を「先生」と認めないと成立しない、ということです。児童・生徒が教員を揚げ足取りの対象としか見なくなってしまったら、学校という制度が形式的に存在したとしても、そこでは何の意味も存在しなくなってしまうのです。

などと書き始めると、これから教師になる若い人に、だから「教師力」を持て、などと、今流行りの説教が始まると思われる方もいるかもしれませんが、もちろん、違います。

教育、というのは、やはり、人と人の間で行われる不思議な、説明のつかない作用によるもので、些細なことが、よい方向にいったり悪い方向に行ったりします。いかに達人といえども、それらを全てコントロールし、一挙手一投足を全て完璧にしろ、というのは無理です。そして、少しでも感情の行き違いや縺れが起きると、善意で行われたことでも悪意に解釈され、感情的な離反を加速してしまいがちになってしまいます。これは、もはや、「運」とか、「縁」としかいいようがない要素も大きいのではないかとも思えるのです。現に、ある年は人気のあった先生が、次の年のクラス担任では嫌われていたり、ということも、結構あるように見受けられます。

もちろん、理屈ではわかっていたとしても、特に、最初に経験する場所で、そのような徹底的な悪意にさらされると、それを乗り切った経験がない分、きついのだろうし、生徒・児童も、教員が悩むに乗じてエスカレートするのだろう、というのは容易に想像できます。昨今の教育現場の大変な仕事の量が、それに拍車をかけているのかもしれません。何とか打開の糸口を掴もうと、無理に頑張って、壁にぶつかって疲弊してしまうのでしょう。

でも、誤解を恐れずにいうと、教育が成立しない要因は、教わる側が、「先生」と認めないことにもあるのですから、教える側だけが、全てを自分の責任として背負い込んだり、絶望したりはしないでほしい、と思うのです。

当たり前のことですが、誰にでも長所があります。特に、教師を志して教育に真剣に取り組んでいる方には、きっと、「教師としての長所」があります。ですが、教わる側の人たちが、教員を軽蔑することで、嗜虐的な快感、虚栄心、怠惰な気持ち、などを満足させることができる、という考え方に囚われてしまうと、当然、その長所を見出だし、学ぼうとする、ということをしなくなります。教わる側の人たちは、本来学べるものを学ぶことができない、という意味で、「損」をしているのですが、そのことは頑なに認めず、教える側に責任転嫁して、自己正当化をするかもしれません。

さすがに、そんなところで頑張らなくてもよいのではないかなあ、と、思うのです。

教育現場に出て精一杯頑張っても、誰かを支えている、誰かに支えられている、という手ごたえを全く感じることができず、もう、死ぬしかない、としか思えなくなったという方がいらっしゃるようでしたら、そのときは、ぜひ、一旦、休むなり、辞めるなり、ということを考えていただけたら、と切に思います。おせっかいかもしれませんが、こういいたいのです。

あなたの仕事場に、不運にも、あなたの「よさ」を見出すことのできない人たちしかいない、というだけのことで、死ぬことはありません。残酷な言い方になりますが、あなたを追い詰めた人たちは、気が咎めたとしても、せいぜい、少しだけ自分で自分に言い訳をする程度で、すぐにあなたのことを忘れてしまい、あなたの気持ちはその人たちには届かないのです。教育に理想を持っていて、こんなに辛くても教育に携わりたいとお考えならば、あなたの教育ができる場所、あなたを先生として認めてくれる子供たちのいる場所をもう一度探してください、死ぬほど悩むくらいに教育に真剣になれる方ならば、どこかにきっとそういう場所はあります。