2010年12月28日火曜日

三浦 哲郎 「おふくろの夜回り」

このときに購入して以来、たびたび読み返しています。

いい文章だなあ、としかいいようがありません。

一文一文が、長すぎもせず、短すぎもせず、難しい言葉を使わなくても十分に意が通じていて、句点、読点のひとつひとつにまで配慮が行き届いていても余計な緊張感は感じさせず、話題との程よい距離がとれていながらもユーモアがあり、暖かな雰囲気を失っていません。過剰なもの、抜きん出たものでアピールする、ということではなく、全てのバランスを穏やかに保つことで、深い味わいを醸し出しています。

療養中とでもいってよい時期の文章も含まれていますが、そんなときでも、ことさらな死生観や、無理な明るさやポジティブさを語るわけでもなく、完璧なまでに今までと同じく、何の乱れも感じさせず、身近な人々や、身辺の何気ない物事を見つめています。

著者が以前、「文は人なり」というようなことを言ったのを覚えています。練り上げた文章の姿勢そのままに、著者が、終わりに近い日々を生きたのだということが伝わってきます。

著者の師である井伏鱒二が、永井龍男と対談したとき、手に入れた志賀直哉の自筆原稿に対して、

「井伏:原稿に消しがあるね。清書をしたあと、『しかし』を消して前からの続きで『が』にしたり・・・その話はいつかあんたにしたよ。そしたら、僕達一生あれで苦労するのだなあと。『が』とか『しかし』でね。」

と語ったのを読んだことがあります。そして、同じ対談集に載っている、その師、井伏鱒二と著者の対談で、

「三浦:でも、読者が何でもなく読んでしまうような細かいところにこだわって、先生はいろいろ調べられたりする。そこに先生の文章の鯵が出てくるんですね。末梢的とおっしゃるけれど、そこに苦心がある。
井伏:君が今日、そんなことを言うのは、敬老会のつもりかね(笑)
三浦:そんなことありません。末梢というのは、横文字にするといわばディテールですからね。ディテールがしっかりしているかどうか。今の人はそのディテールをちゃんとやらないんです。やろうと思っても難しいのに、初めからやる気がない。だから僕はうんとディテールにこだわってやろうと思っているんです。大分前ですけれで、先生が何かの文章の語尾にこだわっておられ、『であった』にしようか、『である』にしようか、『だ』にしようか、とにかく苦心しておられるということを知って、大変感動したことがあります。もう先生が大家というか、相当な年配になられてからですよ。そういうこだわりかたというのは今はなくなりましたね。-無神経なのか、細かいことにこだわらなくなる。それは決していいことではないと思うんです。これは敬老会で行っているんじゃありませんよ」

というやりとりがあったのも思い出しました。

この、最後の随筆集は、著者が、そのように文章を書くことを全うしたことを、静かに、しかし、確かに物語っています。

そして、我々が、そのように文章を書く、最後の一人を失ってしまったことも。