この前、小澤征爾さんと村上春樹さんの対談を読んでいたら、村上さんが、小澤さんが、若いとき、コネもなく外国に出ていって自分の世界を提示して人々を惹きつけた、一人の無名な若者にどうしてそんなことが可能だったのでしょう? というようなことを聞くくだりがありました。小澤さんは、自分が指揮の基礎をみっちりと仕込まれたことを挙げていて、
だからね、レニー ( = バーンスタイン) の指揮を間近に見ていると、あるいはカラヤン先生の指揮を見ていると、だいたいわかるんです。ああ、この人はこういうことをこういう風にやろうとしているんだなと。そういう風に分析的に見る。だからそのまま真似しようという気持ちになりません。それに比べて、自分の技術をちゃんと持っていない人って、他人の型だけを真似ちゃうんです。格好だけを表面的に真似ちゃう、僕の場合はそれはありませんでした。と、話しているくだりがあって、なるほどなあ、と思いました。
もちろん、齋藤秀雄先生が世界のオザワを仕込むことと、私がちょこっと学生さんのゼミを指導するのを比較するのは僭越の上にも僭越ですが(笑)、少なくとも気持ちだけは、そういう意味での「基礎」というものを身につけられるようにはしたい、と思ってはいるのです。そして、今回、ゼミを終えた学生さんは、これから教える数学を俯瞰することができるような構造の捉え方ができ、単なる丸覚え、丸写しとは違う、咀嚼し、説明することができるような力がついたのではないかと思います。そういう人材を教育現場に送り出すことができた、ということに、少し、ほっとした気分でいます
教育学部で教えることになった当初から、それまで専門の数学にばかり関わってきた私が、先生になる学生さんになすべきことは、数学によって具現化されるものの見方や考え方を実際に経験していただくこと、そして、生徒さん達に伝えるべきものを自らのものにする機会を与えることだと思っています。そうはいっても、ものの見方や考え方を身につける、というのは、とても大変なことだともつくづく感じています。
仏教に「薫習」という言葉があります。衣にお香を焚き染めると香りがつくように、知恵を身につけるための修行をする、ということのようです。学問というものもそれと同じように、その営みにずっぽりと浸かって、考え続けないと自らのものにならないように思いますが、現在、教員養成に必要とされる、専門の素養以外の知識も非常に多く、じっくりと腰を据えて専門の学問に取り組む、ということがなかなか難しいようにも思えます。
たびたびこのページで慨嘆しているように(笑)、最近は、講義で少し内容を重たくすると受講する学生さんが着いてこれなくなってしまいますし、私のところのように小中高で直接教えないような抽象代数学のテキストを読むゼミには、なかなか学生さんが志望してきません。そして、どうやら、大学の数学を理解していることと教員採用試験の成績の間には強い相関が見られないのではないかと思えてしまいます(笑)。 そんな状況下で、本物を志向するとか、いっぱしの抱負をいだいてもしょうがないんじゃないか、などと、悲観的になることもあるのですが、何年かに一人でも、こうして、志が高い、というか、物好き、というか(笑)、こちらの気持ちにきちんとと向き合って勉強していただけて、しっかりとした数学を身につけて現場に出て行く方が出てくると、私がここにいる意味が少しはあるのかな、と、希望が持てる気分になれます(笑)
というわけで、充実した時間を過ごすことができました。