前にもここに書きましたが、レポートや試験の文面を読んでも、分かっているのか分かっていないのかよくわからない記号や用語の使い方を目にすることが増えてきたのに業を煮やし、後期の担当のうち、論理や集合の演習は問題を配布してできた人から一人ずつ報告に来てもらって試問をし、時間内に終わらなかったら翌週までの間に済ませるということにして、群論の講義は毎週数題(?)レポート問題を出して、こちらも提出時に口頭試問をすることにしました。この記号そんな風には使えないよね? 定義をもう一度言ってごらん、とか、ここの部分やけにあっさりと書いてあるけど実際は論理的なギャップがあるよね?証明してごらん、などと、意地悪かつ執拗な攻撃を繰り広げています(笑)
これらの科目は主に数学教育講座の2年生12 名が対象なのですが、群論の講義は諸般の事情で 20 名弱の方々が受講しているので(笑)、のべ 30 名前後の方々がチェックを受けに来ることになります。こちらの揚げ足取りに窮した挙句に、出直しを宣告される方もいますので、ひっきりなしに対応するようになってしまっています。
以前、学生さんからの質問が最も頻繁にあったときも、半期でだいたい 120 から 130 回くらいだったのですが、この調子だと一月くらいでその回数に達することになります。しかも、学生さんから質問に来るときは何人かを一遍に相手にすることもできたのですが、試問の形にすると一人ずつ対応することになるので、同じことを何度も繰り返すことになり、余計に労力を使うことになります。自業自得ですが(笑)
講義をしていると、聴講している方々が、それなりに関心を持って食いついてくれているな、とか、何だか分からなくなってコピーマシーン状態なんだろうなあ、とか、眠りに落ちる寸前で白目をむいているぞ(笑)、などという雰囲気はそれなりに察することができます。 何度か、100 人以上の受講者の講義をしたことがあるのですが、そういうときに 20 名くらいの方に前のほうに座って熱心に聞いてもらえると、それなりに手ごたえがあるような錯覚は得られます(笑) しかし、いくら同じ割合とはいえ、10 人相手の講義で食いついている方が 2 名くらいで、他の方がわからないけどノートだけ写しておこうとしているようだったり、眠気を必死にこらえているようだったりで、試験前は画像を取り込んで出力するスキャナ状態だと、張り合いがない上に、このままで大丈夫なのかなあ、とか、不安になってしまうので、どうしても大半の受講者に食いついてもらおうとしてしまうのが私のよくないところです。 そのときはチンプンカンプンでも、後になって、ああ、あれはこういうことだったのか、と思うこともありますし、さらには、そういう風に理解したほうがよいという場合も多いのですから。
こういう過保護によって、よくない影響が出てしまうかもなあ、と心配なこともあります。
ひとつは、自分が物事を理解するペースや、他のいろいろなこととの兼ね合いの中で勉強をすることを身につける機会を奪っているのではないか、ということです。やらなければならないことも多いかわりに、自分で使い方を決められる時間も多いのが大学生で、そういう中で、自分の勉強の仕方を覚えてゆく、というのは、この時期にしておかなければならないような気もしていて、中学校の宿題みたいに、来週までこれやっておきなさい、というのがよいことなのかなあ、と考えてしまうのです。
もうひとつは、必要なことや知りたいことのために自分から能動的に動く、ということの必要性を実感できなくなるのではないか、ということです。以前、私の講義の単位を落としてしまった学生さんがいました。内気で研究室に来るのは敷居が高かったというのが理由のひとつらしいのですが、翌年は、これではいけない、と思ったらしく、質問に来るようになり、しっかりもしていて真面目な方だったので、わからないところをその都度埋めるようになると極めて順調に勉強が捗りました。それで、試験前に最後に質問に来たときに、君は去年落としてしまった単位を今年は優秀な成績でとると思うけど、その差は、勇気を出して質問に行こうと思ったことなんだよ、と話したことがありました。 そういうことの大切さを、全員研究室に来るようにこちらが仕向けることで、わからなくしてしまったかもなあ、と思わなくもないのです。
諸々の危惧がどのように落ち着くのか、今後の展開を見てゆこうと思います。
その前に、後期の間、このペースを維持できるかが問題ですが・・・(笑)